説明


2011年3月11日東日本大震災ではあまりに多くの方が数多重被災されました。衷心よりお悔やみとお見舞を申し上げます。

みやぎジョネット(みやぎ女性復興支援ネットワーク)は、東日本大震災を受け、被災地女性と全国支援者の思いを結ぶことを目的に 発足したNPO団体です。各種支援プログラムにより、お一人、お一人の女性が今後の生活を新しくつくっていけますように、ひいては皆の光となることを願い支援してまいります。また、女性のニーズを調査し、政策へ提言いたします。       ―みやぎジョネット会員の多くは被災女性です―

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2011年7月31日日曜日

「おんなの語り場」津山体育館レポート(南三陸の人々の避難所 )


7月24日の日曜日は 「おんなの語り場」がありました。
(みやぎジョネットと宮城県の女性議員さんたち有志の実行委員会の主催)

女性の視点での今回の災害を語ろう というもの。

仙台駅前のホテルの会場と 岩手・宮城・福島とSKYPEでつないでネット会議を行ないました。
私は 登米市の避難所地へ行くスタッフ運転手として参加しました。

登米市津山町柳津の体育館には 当初最高300名超の南三陸の津波被災者が居ました。

津波災害から4ヶ月以上経ち 仮設、元の自宅を直して住む、アパートと、それぞれ離れていったが、がいまだに80名もの方たちが暮らしています。
ここの避難所は 自衛隊からの炊き出しは一切無くて、自分たちで3食手作りで乗り切ったそうです。
「3升の鍋5個と5升の鍋1個で」ご飯を毎回。 ひとつの鍋の分は 瓦礫の撤去や働きに行く人たちのおにぎりを60個。それを毎日。 とっても大変でつらかった! だけど、あの時やれることがあったという幸せ、やりきったという自信が付いた」 炊き出し班を仕切ったSさんが語りました。

もう一人の方は 地元の保健師 Tさん。 自宅や家族の被災も甚大ながら、お年寄りから小さなこどもたちの健康維持に携わってきました。
「今も避難所で暮らす人たちが すべて受ける側の支援に慣れてしまうと これからの生きる力にとっていいものかどうか?」 と、意味のある提言でした。

一関市の中継地からは陸前高田で被災した方たち。
勤めていた醤油会社の本社は壊滅しましたが、ただ一人も解雇されずに場所を一関の支店に移して全員が仕事を続けています。 
「自分たちは商品を開発してきた。 これからもがんばるので応援してください!」というアピールがありました。
女川の避難所。避難所で、女性や障害者のために行政を叱咤激励しつつ 現在は仮設で一人暮らしの人たちを巡回している女性 70代。 
「みんな何かをしたい。女性は手を動かしたいの。ミシンがほしい。アイロンも、布地などの材料もほしい」と訴えました。
福島・郡山市からは 若いシングルマザー。 
「原発の恐怖がある。子どのの将来が心配。毎日の現実を知ってほしい。ネットで仲間を増やしている」との報告がありました。
仙台会場には150人地近くの参加者がありました。 
ネットの画像で 5つの画面が交互に映ります。
会場には多くの方々が集まりました。
多くの市民の皆さま、国会議員、県会議員、市会議員、ニューヨークからの女性映画監督も来て発言しました。スリランカの女性記者の発言もありました。
現在各地で支援活動中の方々の声、石巻で深刻な被災をした本人の意見もありました。
本当に短い時間にあせりながら 皆さんは訴えました。

「被災地によって物資の偏りがあります。 
ミルクが足りない!、どこですか? ○○にありますから送ります。
すぐ秋になります。毛布が足りない。 ○○にあるはずですから確認しましょう。
裁縫道具やミシンがほしい。 支援機関があります。すぐ呼びかけます。
支援を受けるばかりではいけない、仕事がほしいのです。仕事をください!
行政に働きかけましょう!声を出して、拾って、より具体的に動きましょう!・・」
う~~ん、時間が足りない! 

でも、これは 始まりです。  
 「女性たちの現実の声を大きく続けて発信しましょう!!」と皆で盛り上がりました。

各中継地点の映像が消え終了した時、避難所の会場で拍手があがり、大きな安堵感が押し寄せました。
 それで気づきました。
避難所の会場を出入りする人たちが とっても静かにしていてくださったことを。
更に、我々スタッフと出演者にも大盛りの炊き出しのご馳走まで、いただきました。
5月の第1回目のジョネットサロンの 地元協力者のMさんも駆けつけていただきました。
被災地の訪問中の助産師さん達もきてくれました。
たくさんのありがとう!をもらって 仙台に帰ってきました。
当日登米現地班 スタッフM

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