かみの家 おかみ律子さんに、初めて連絡が取れたのは震災より一ヶ月過ぎた4月14日のことでした。
当時は、仙台にいる私たちも食料やガソリンの不足、電気・ガス・水道のライフラインの欠如 で大変でした。
沿岸部の大災害の様子が毎日報道され、
次第に友人・知人の安否も入ってくるようになりました。
ガソリンが 、充分に出回り始めたころです。
その頃ようやく彼女からの連絡があったのです。
4月22日に有志で東松島市宮戸の月浜に支援物資を運ぶことにしました。
三陸自動車道は自衛隊や他県からの応援の車両がいっぱいです。
三陸道を出てしばらく鳴瀬川の土手を走りました。
土手には津波で運ばれた瓦礫があります。
川に車がありました、家の屋根も流れています。
海岸に向かうにつれて瓦礫 の山は、相当の高さになり、
土手で遮られたはずの反対側にまで瓦礫が流れていました。
土手が決壊したわけではなく、野蒜(のびる)海岸からの津波が、
堤防を乗り越え流れたのでした。
河口から右に折れて 野蒜海岸に向かいます。
消防署、レストラン、おしゃれな家の多い 住宅地があるはず、少し行くと「かんぽの宿」が 右に見えるはず。
しかし、絶句!
…道路はやっと通れるほどに臨時に作ったもので、所々にアスファルトが見えるだけ。
以前は海岸線もみえなかった松林は折られ、流されていました。
住宅も土台や柱だけが残っています。
道路復旧や 安全のためにパトロールの人たちが立っています。
遊覧船の船着場近くの橋が津波と地盤沈下で寸断されていました。
そこにあった電気、水道、電話などのライフラインも断ち切られてしまったのです。
陸続きでありながら 孤島になっていたのです。
あの頃は災害地に行っていいものか、却って邪魔にならないだろうか、 立ち入り制限されているのだろうか 、心配でした。
だけど かみの家 おかみは 「ものは何でもありがたいよ~~、だって何にも残って無いんだもの、これから、皆がここを出て別々に暮らすようになれば、なんだって必要だから、運んでもらうと嬉しい!!」
と安堵する言葉をもらいました。
支援したい気持ちは迷惑ではなかったのです。
あれから、報道関係の記者、大学関係者、女性支援の方々を何度もご案内しています。
被災地も 、国道沿いや大きな町の復旧は進んでいます。
しかし月浜は未だに発電機からの仮の配電です、電話はまだ繋がっていません。
水道は繋がったけれど かみの家(民宿です。自宅は流されたのです)は
建物の損傷が激しく、配管の工事をしないと水道は使えないということです。
昨日の電話ではあの目の前の空き地に仮設住宅が建設されているそうです。
「すご~い、速さでできるもんだわ~。見事だよ~」
「お父さんは今鳴子温泉。 私は来週に番が回ってくるので楽しみ。 ありがたいよね」
「自衛隊さんはもういないけど 弁当は毎日いただいているんだよ~」
いつも感謝を口にして、アハハ~~と笑い声を出す おかみの律子さんです。
見守っていくだけですが、現状を皆さまに知っていただくのが大切と思っています。
おかみの先輩
おかみの先輩
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