説明


2011年3月11日東日本大震災ではあまりに多くの方が数多重被災されました。衷心よりお悔やみとお見舞を申し上げます。

みやぎジョネット(みやぎ女性復興支援ネットワーク)は、東日本大震災を受け、被災地女性と全国支援者の思いを結ぶことを目的に 発足したNPO団体です。各種支援プログラムにより、お一人、お一人の女性が今後の生活を新しくつくっていけますように、ひいては皆の光となることを願い支援してまいります。また、女性のニーズを調査し、政策へ提言いたします。       ―みやぎジョネット会員の多くは被災女性です―

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2011年8月15日月曜日

8月14日 ジョネットは牡鹿半島と石巻湊小学校へ

8月14日は、牡鹿半島の鮎川まで行きました。海沿いの平地にできていた集落は全て壊滅状態でした。奥松島の月浜と同じ情景でした。太平洋に面した、小さな沿岸部集落の“全て”に悲劇が起きている事を実感しました。鳴き砂にて有名な十八浜(くぐなりはま)の砂浜も小さくなって荒れていました。実は、ジョネットで一緒に活動しているOさんは石巻の被災者でもあります。(家も両親も、家業も車も、一瞬で消えました。奇跡的に水没した車から救出されたのです)彼女は、子どもの頃、夏休みはこの近辺の小さな浜にある叔母さんの家に泊まり、太平洋を満喫していました。8月14日に初めて、叔母さんも一緒に流されてしまった浜の家の跡地を訪ねる事が出来ました。泣いていました。思い出の故郷の風景は、山以外になくなっていました。

午後は猛暑の中、石巻の小学校に行きました。今まで何度も、前を通りすぎた避難所です。石巻の湊小学校は、道路を挟み保育所があります。保育所は北上川のそばです。その保育所が、地域の避難所になっていたそうです。保育所の園長先生は、元中学校の校長先生。彼は津波警報を聞いて「この保育園では川に近い、この2階建では低すぎる」と判断し、地区住民に対して、「道路を越して湊小学校に避難する様に」と誘導し続けたそうです。無論、小学校にも津波が押し寄せましたが、多くの人々が上階に逃げて助かりました。災害直後は、1400人もが湊小学校に避難したそうです。小学校は避難所指定ではなかったので、水・食糧の備蓄もなく、避難者が持参してきたペットボトルの水を、一口づつ別けあって飲んだそうです。(もっとも、学校も津波被害に遭っていますので、備蓄は上階にないと、一瞬で失うわけですが)
寒さと備蓄不足の中を励まし会って過ごし、数日後に自衛隊がようやく来て、水・食糧を入手できたそうです。園長先生の的確な判断を尊敬します。
4月中は、被災親族と友人のために石巻に頻繁に通っていました。特に湊地区は道路に水が上がるのでとても行きにくかったのです。帰ると車は、ドロで真っ白でした。翌日は洗車センターで流すのが定番でした。石巻のあちこちの親族、友人を回っていると夜になってしまうのです。湊地区は8時でも、深夜の様に真っ暗でした。帰り道、湊小学校だけが、発電機で明るくなっているので、思わず写真を取った事を思い出しました。Y

小積までコバルトラインを行きました




以前の訪問では、本当に鹿が出てきて驚かされました

砂に埋もれてしまった船


地盤沈下で木の根があらわになっていました/十八成浜



鮎川港に着いたとき、丁度、島に電気を通す為の潜水作業が終ったところでした


帰路、海に沈んだままの乗用車をみつけました

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